2010年4月28日 (水)

40周年です。

だいぶ間が開きました。
本当はあと一週間早く更新するつもりだったんです。
嘘じゃないです。

という変な弁明はさておき、かなり前にこのブログでも触れた通り、2010年は、ハヤカワ文庫創刊40周年にあたります。ということで2010年度初回を飾るフェアは、その名も「ハヤカワ文庫創刊40周年記念フェア」!であります。すでに書店さんでも開催されているところもあるですね!

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小社のフェアとしては珍しいオールジャンルを一同に会したもので、内容的には秋に行っている「ハヤカワ文庫の100冊」フェアと対になる感じです。コンセプトは「歴史、赤、緑」?ハヤカワ文庫のあゆみがわかるリーフレットも無料配布中ですので、書店でみかけたらぜひ手にとってみてください。

主なラインナップはこちらに。

今回も短い更新だ……。
さて、次はフェア以外のネタもはさんでいこう。。。
ノンフィクちゃんブログを意識)

2010年3月24日 (水)

JAフェアってのをやってます。(JAフェア)

忙しさにかまけてもう3月も下旬。
実は中旬頃から、ハヤカワ文庫JAフェアというのを書店店頭で開催中だったりします。
あっ、フェアページも更新しなきゃ。

今回のテーマは改革、革新…。
この4月に、ハヤカワ文庫JAは記念すべき1000番を数えます。当初は日本人SFの文庫としての創刊でしたが、いまではミステリあり、文学ありという感じで、もう総合文庫。ということで、気持ちも新たにJA頑張るぞ!というフェアになっております。
そこで選んだキャッチコピーが、

日本を今一度せんたくし申候

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これはあの坂本龍馬さんが姉に宛てた手紙の中で使ったお言葉で、結構有名な感じです。
なんか勢いあるし、人物のイメージ的にも、ぴったり!ということで、帯&POPに踊ることとなりました。
流行ってますしね…。

ちなみにJAというのは、JapaneseAuther(日本人作家)の略です。
豆知識でした。
解説フェアがやたら長かったので、短い更新でもいいですよね?
ハヤカワ文庫JAフェアは全国書店で開催中です!

2010年3月12日 (金)

番外編(「解説」フェア)

もう3月。

光陰矢のごとしだとか馬上少年過ぐとはよく言ったもので、早くも?次の文庫フェアの時期が近づいてきました。フェアの開催時期でしか時候を感じることの出来ない悲しい生活をあとどれくらい続ければ良いのだろう。という思考を振りきって、「解説」フェア最後の更新です。今回は番外編!ということで発売前の作品、マリー・ンディアイ『ロジー・カルプ』の訳者あとがきを掲載してしまいます。訳者の小野正嗣さんは小説家でもありまして、2008年には『マイクロバス』で芥川賞の候補にもなられています。では、どーぞ。

訳者あとがき  小野正嗣

 本書の著者マリー・ンディアイは、セネガル人の父とフランス人を母に、一九六七年にフランスのピティヴィエという小さな町に生まれ、パリ郊外で成長した。
 とにかく本を読むのが大好きだった少女は、フランス文学のみならず、ありとあらゆる国の文学を読みふける。本好きな子供によくあるように、そのうち、これほどの大きな喜びをもたらしてくれるものを自分でも作ってみたいと思うようになる。十歳を過ぎるころには、小説らしきものをすでに書き始めていた。十六歳のときに初めて、これは自分の作品だと言える小説が書けたので、とくに大きな期待は持たずに、三つの出版社に送ってみた。すると、三日後には返事が来た。すぐにでも出版したい、と。サミュエル・ベケットやクロード・シモン(ともにノーベル文学賞受賞者)の作品を出版していたミニュイ社の社長ジェローム・ランドンからだった。ベケットの作品の真価を見抜き、世に送り出したランドンの目には、パリ郊外の町に住む女子高校生の才能、その作家としての豊かな未来は一目瞭然だったのだ。こうして一九八五年に処女作の Quant au riche avenir が刊行される。作家マリー・ンディアイの誕生である。
 以後、小説のみならず、戯曲作品や児童書などにも活躍の場を拡げ、二〇〇三年に発表した戯曲 Papa doit manger は、コメディー・フランセーズのレパートリー入りを果たした。存命の作家がレパートリーに入ることは、きわめて希有なことであり、この快挙は大きな話題になった。
 昨年(二〇〇九年)には、小説 Trois femmes puissantes で、フランスの最も重要な文学賞の一つであるゴンクール賞の栄冠に輝いた。この受賞はちょっとした事件になった。ンディアイは二〇〇七年の夏以来、夫で作家のジャン.イブ・サンドレと三人の子供たちと共にベルリンに住んでいる。昨年の夏、ある雑誌のインタビューに答えて、自分たちのフランスから出立の理由として、現大統領になってからのフランスの息苦しさを挙げた。そして大統領がアメリカの愛国主義的な言葉を真似て言った「フランスを愛するか、でなければ立ち去れ」に愚直に従って、こんな自分には愛せないフランスを離れたのだと。移民法の改正に見られるような、フランス社会の排外的な傾向に、混血という出自から、そして何よりも作家として、ンディアイは敏感にならざるを得なかったのだろう。ゴンクール賞の受賞によって、大統領やその周辺の政治家たちに対する批判的発言が蒸し返され、右派の政治家などからの非難を浴びることになった。おそらく彼女の発言は、「ンディアイ」というアフリカ系の名と彼女の肌色のゆえに、〈フランス的伝統〉を信じる者たち、それ自体いかがわしい〈フランス固有の価値〉にアイデンティティの根拠を見出そうとする者たちの目には、自分たちに対する攻撃に映り、過剰な反応を引き起こしたのかもしれない。
 彼女の「ンディアイ」という名前と外観から、読者は英米のいわゆる「ポストコロニアル文学」のフランス語版を想像してしまうかもしれない。つまり、移民系の作家が自らの出自や家族のことを、小説という形でフランス語で書いたのだろうかと。だが、それはまったくちがう。ンディアイの父は、彼女が一歳に満たぬころに母と別れてセネガルに戻った。母の手で、兄(歴史家のパップ・ンディアイ Pap Ndiaye)と共に、フランスで成長した彼女は紛れもないフランスの作家である。ンディアイの作品の特徴の一つとして、読んでいると現実と非現実の境界線が気づかぬままにふっとかき消え、両者がごく自然に混じりあう──だが逆説的にも、そのあまりの自然さという異常さに気づいて、たじろぎ、当惑され、魅入られる──ような独特の幻想性があるが、それは、例えばアフリカの神話的世界や口承文芸の伝統などとはまったく異質なものである。あくまでもそうした幻想性は、ときにプルースト的と評されたりもする、きわめて繊細で洗練された文学表現によって実現されている。
 だが単純に、ンディアイを〈フランス的な〉作家と言ってしまうことは慎もう。そもそも彼女をそんなふうに何らかの文学的系譜に位置づけてみたところで、あまり意味はない。すぐれた作家がみなそうであるように、ンディアイもまた世界中の文学作品との関係のなかで書いているからだ。彼女の家を訪れたとき、巨大な書棚には、フランス文学にとどまらず、フランス語に訳された実にさまざまな国の文学作品が置かれてあった。「書くためには読まなければならない。書くことも好きだけれど、読むことはもっと好き」作家はそう言っていた。翻訳で読んだとしても原文のなかに息づくものに人は必ず浸透される。
 本書は、ンディアイにとっては七番目の長篇にあたるRosie Carpe (Editions de Minuit, 2001) の全訳である。この作品は、二〇〇一年、ゴンクール賞と並んで重要な文学賞であるフェミナ賞を受賞した。
『ロジー・カルプ』もまた、世界文学との関係のなかで書かれたものだと言える。物語は、妊娠しているとおぼしき若い女性ロジー・カルプが、幼い息子ティティを連れて、兄ラザールに会うためにカリブ海の島グアドループを訪れるところから始まる。この冒頭部分を読んだとき、訳者は世界文学におけるおそらく最も有名な(?)妊婦を思い出さずにはいられなかった。大きなおなかを抱えて、子供の父親を探して旅をするリーナ・グローヴである。実際、ンディアイは本作を書いているあいだ、フォークナーの『八月の光』をたえず読み返していたという。もちろんヒロインの境遇は似ているが、両作品はまったく違う。本書を読まれたあと、ぜひフォークナーの作品も読んでみていただきたい。『ロジー・カルプ』がどれほど力強く独創的な作品であるかが確認できるはずだ。傑作とは、つねに過去の偉大な作品との関係のなかでしか書かれないものなのだろう。
 本作『ロジー・カルプ』でのフェミナ賞、そして昨年のTrois femmes puissantes でのゴンクール賞と、マリー・ンディアイはいまや名実ともに現代フランス文学の最重要作家となった感がある。そのンディアイの代表作とも言える本書を、こうして翻訳することできたのは望外の喜びである。
 ンディアイの主な小説作品は次のとおりである。

Quant au riche avenir (1985)
Comedie classique (1987)
La femme changee en buche (1989)
En famille (1991)
Un temps de saison (1994)
La sorciere (1996)
Rosie Carpe (2001)
Tous mes amis (2004) 短篇集『みんな友だち』笠間直穂子訳、インスクリプト
Autoportrait en vert (2005)
Mon coeur a l’etroit (2007) 『心ふさがれて』笠間直穂子訳、インスクリプト
Trois femmes puissantes (2009)

 本書を翻訳する際には、詩人でパリ第8大学名誉教授のクロード・ムシャール氏、そしてとりわけ明治学院大学のジャック・レヴィ氏から、数々の貴重な助言を賜った。ありがとうございました。
 仕事の遅い訳者がこうして翻訳を上梓できたのは、早川書房編集部の山口晶氏が何かあるたびごとに発してくれた「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という言葉のおかげとしか思えない。山口さんにはずいぶんご迷惑をおかけした。ここに心からお詫びと感謝を。

 二〇一〇年三月

今回は「解説」という縛りを設けてみたのですが、こんな感じで訳者あとがきもかなり魅力的だったりします。先日逝去された翻訳者の浅倉久志さんもあとがきの名手でした。こころからご冥福をお祈りします。と、感傷に浸ったところで今回のフェアの更新はおしまい。

ではでは、次のフェアでお会いしましょう。

(とはいえ、本は「解説」で選ぼうフェア、まだ開催している書店さんもありますので引き続きご愛顧のほど。)

2010年2月23日 (火)

『流れよわが涙、と警官は言った』の解説をUPしてしまう。(「解説」フェア)

さて、「解説」UP第2弾は、大森望さんによる、フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』の解説です!少々長めですが、全文掲載。ちなみに、大森望さんは現在好評発売中の伊藤計劃『虐殺器官』の解説も担当されています。こちらもすばらしい解説ですので、ご興味のある方はぜひ! と、ダブル宣伝。

 大森望  

「(本書の登場人物のひとりである)バックマン本部長がこの本を読んだら、いったいなんというだろうか?」と考えたことがある。(中略)彼は赤のボールペンであちこちに線を引き、さまざまな場所にクエスチョン・マークを書き入れ、最後にこうつぶやくだろう。「愛にはいろんな形があるようだ。この小説はそれについて書いている。しかし、最後に出てくる、究極の、いちばん謎めいた愛、すべてに対する愛については、まるきり説明がない。たぶん、作者もちゃんとわかってはいないんだろう。だが、それが存在することはまちがいない」それから彼は、暖かで趣味のいい書斎の、床から天井まである大きな本棚に本をしまい、あとは忘れてしまう。
 しかし、すべて忘れてしまうわけではない。彼の聡明な頭脳は、この小説とそれが語りかけてきたものとをそっくり忘れさせてはくれないのだ。
 いつか、ずっと先の、遠い遠い未来の一瞬に、彼は考え、この本を理解する。本の中で起こったことを、なぜそうなったか、そこにどういう意味があるのかを理解する。そのとき、彼にとっては、ともかくフェリックス・バックマン警察本部長にとっては、この本はたしかに意味のあるものとなるだろう。
 そして、そのことを知って、作者はしあわせである。
──フィリップ・K・ディック
           〈PKD Newsletter〉八六年十月号に掲載された、未発表の本書序文より抄訳(一九七○年夏ごろのものと思われる)

 本書は、一九七四年に発表されたフィリップ・キンドレッド・ディックのSF長篇、Flow My Tears, the Policeman Saidの全訳である。七五年のジョン・W・キャンベル記念賞を受賞したほか、同年のネビュラ賞最終候補にも残っている。ご承知のように、本書の邦訳はもともとサンリオSF文庫から刊行されていたが、八七年に同文庫が廃刊されて以来、絶版状態となっており、このたび本文庫に改めて収録されることになったしだい。
 作者は死んでも、すぐれた芸術作品は残る──ちょうど、本書の結末で、メアリー・アン・ドミニクの青磁の壺が、登場人物たちの死後も大切に保存され、人々に慈しまれるように。ディック後期の代表的な傑作である本書が、さほどの間をおかず復刊されたことを心から喜びたい。(関係ないけど、サンリオSF文庫は古書店業界で高値を呼んでいるようで、大枚はたいてサンリオ版を買ったばかりなのに、って人がいたらご愁傷さま。ほかにもいくつかの作品については、復刊もしくは新訳刊行が予定されているらしいので、悪徳古本屋にだまされないようご注意を)
 この、奇妙に魅惑的なタイトルをぼくが初めて目にしたのは、SFマガジン七六年一月号に載ったジーン・ヴァン・トロイヤー氏によるSFスキャナー。一度目にしたら忘れられない名前を持つこの小説が訳される日を、首を長くして待っていたことを思い出す。
『流れよわが涙、と警官は言った』──どちらかというと即物的なタイトルが多いディック長篇群の中で、これは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や、Now Wait for Last Yearと並んで異彩を放っている。しかし、こうして挙げてみると、そのいずれもが、数あるディック長篇中一、二を争う傑作ではないか。独断を承知でいえば、ディックのSF長篇においては、名は体をあらわすのだ。(ところで、ハーラン・エリスンには「・悔い改めよ、ハーレクィン!・とチクタクマンはいった」って短篇があって、このタイトルもかっこいい。大原まり子の『処女少女マンガ家の念力』の冒頭には、「目覚めよわが妹よ、と少女マンガ家は言った」ってフレーズが出てくる──以上蛇足)

 ここで本書の成立前後の事情について触れておこう。ビブリオグラフィを見ると、ディックは六○年代に二十篇に及ぶSF長篇を発表しているが、七○年の『死の迷宮』を最後にふっつりと作品がとだえ、ようやく四年ぶりに刊行されたのが本書。しかし、この作品の第一稿は、すでに七○年には完成していた。エージェントのスコット・メレディスに宛てた、七○年八月二日付の手紙で、ディックはこう書いている。「わたしは(『流れよわが涙』の)草稿を読み返し、いくつかの場面に手を入れ、材料を追加し、結末を練りなおしてもっと効果的にした。それから、修正した原稿をもう一度はじめから読んでみた。これは、いままでに書かれた中で最高のSFだと思う。まちがいなく、わたしの書いたものの中では最高だし、どうしてこんなものが書けたのか、自分でも見当がつかない」
 にもかかわらず、決定稿ができあがるまでには、なお二年半の歳月をまたなければならない。速書きで知られるディックが、本書にかぎってなぜそれほど長い推敲期間を要したのか。その疑問に答えるには、著者の人生をたどってみる必要がある。
 七○年代はじめといえば、ディックにとってきわめて多難な時期だった。そのころのディックは四十代前半、不惑を過ぎた年齢だが、生活のほうはおよそ安定とは縁遠い。本書の草稿を書き上げた翌月の七○年八月には、妻のナンシーが娘のアイサを連れて家を出てしまう。つづく七一年には、あまりにも有名な、未解決の家宅侵入事件。
 グレッグ・リックマンによるインタビュー集、Philip K. Dick : In His Own Wordsの中に、この当時の生活と『流れよわが涙、と警官は言った』について、ディック自身が詳細に語っている件りがあるので、すこし長くなるが引用する。

『流れよわが涙』を書いたのは一九七○年のことだ。あれを書いたのは、わたしの人生でも最悪の時期だった。あの時期が最悪だったのであってほしいね。あんな日々は、もう二度と経験しないですませたい。わたしがその本を書いているあいだに、ナンシーは家を出てしまい、それでもわたしは最後まで書き上げた。ナンシーは娘を連れて去ってしまったのに、わたしは部屋が四つ、バスルームふたつの家にたったひとりで住み、本を完成させようとしていた。本のテーマは自伝的なものになった。ナンシーを失ったことでひどく苦しんでいたから、(本書に登場する)警察本部長の妹を死なせた。そのあとで本部長が経験するすさまじい悲しみと孤独は、じっさいにすべて、ナンシーを失った悲しみに基づいている。
 だから、このとき自伝的な書き方になってしまったのは、自伝的要素を排除することができなかったせいだ。『戦争が終り、世界の終りが始まった』の場合とは違う。『戦争が終り……』は、たしかに自伝的な長篇だが、それは自伝的長篇を書こうと思ったからなんだ。ところがこの本の場合には、わたしの実人生に起きていることを頭から締め出して、小説を書くことができなかった。実人生に起きていることが本の中に無理やりはいりこみ、本を支配した。だからわたしは、この本の結末を何稿も何稿も書き、書いては直し書いては直した。ナンシーに去られたことに対する気持ちを紙の上に書きつけるために。ほんとうに愛していたんだ。ひょっとしたら彼女は、わたしが出会った中でいちばんすばらしい人間かもしれないと思う。それほど愛しただれかを失うのがどういう気持ちのものかを書きとめたかった。だからわたしは、結末を何度も何度も推敲し、おかげで、決定稿をタイプで清書してエージェントに送る段になると、すっかりくたびれはてていた。自分で満足するまでに、第六稿まで書いていた。わたしは原稿を放り出し、ふたたびとりかかったのは、七三年に、オレンジ郡にもどってきてからだった。

 ここでは触れられていないが、妻と娘が去ったあと、ディックの家は、ストリート・ピープルたちのたまり場になる。ジェフ・ワグナー「彼の書いていた世界の中で──フィリップ・K・ディックの世界」(浅倉久志訳/『悪夢としてのP・K・ディック』に収録)によれば──
「その大半は、溜り場をほしがっていた十代の麻薬常用者だった。この若者たちの多くは死ぬか、それとも不治の病気に罹った。十八カ月間のどん底生活で、ディックは十一人の友人を地元の精神病院へと運んだといわれる」
「ディックの小説特有の悪夢に似た雰囲気がふたたび彼の生活に侵入しはじめた。そこでは若者たちが彼の目の前でトリップし、無防備な平凡人たちが別世界へとびこんでいき、そして帰ってこない。ディックは創作をやめ、依然として大量の覚醒剤を使いながら、その生活の仲間入りをした。キャシイ・デミュエルという黒い髪の娘と恋におちた。若者たちの放埒さと、苦しみを分かちあった」
 このときの体験に直接取材したのが『暗闇のスキャナー』だが、それはまたべつの話。文中に出てくるキャシイ・デミュエルと本書に登場するキャシイとの名前の一致は偶然ではないだろう。だが、ディックは、この“黒い髪の娘”にも裏切られる。ディックは彼女といっしょに、講演を依頼されていたカナダへと赴くはずだったが、キャシイは最後の瞬間に搭乗券を破り捨てた。(また、この当時、ディックは、ダナという十八歳の少女とも知り合っている。彼女はヘロイン中毒で、同時に警察への情報提供者だった)
 当時のディックは鬱病を治すためにアンフェタミンを常用しており、七二年二月、バンクーバーに渡ってからも、鬱はつづいた。「わたしは、鬱状態だったからアンフェタミンを飲んだ。なぜ飲むのかということについては、わたしは完全にまちがっていた。書くために飲むんだと思っていた。鬱を追い払うために飲むのだと。鬱が治れば、書くことだってなんだってできる、と」(ポール・ウィリアムズによる評論・インタビュー集、Only Apparently Realより)
 一行も書けないまま、ディックの鬱病はますますひどくなり、三月には自殺を企てて、二十四時間監視のつく療養センターに入院した。四月になってようやく体が回復すると、カリフォルニアにもどって新生活をはじめる。そこでテッサ(レスリー・バズビー)という女性と知り合ったディックは、ナンシーと正式に離婚し、テッサと結婚する。そしてようやく、長い鬱状態を脱してふたたび書きはじめ、短篇「時間飛行士へのささやかな贈り物」につづいて、『流れよわが涙、と警官は言った』を完成させる……。
 ディックの人生をふりかえるのに、思いのほか紙幅を費してしまった。小説だけを楽しみたいという人には、あるいはどうでもいいことかもしれないけれど、しかし、『流れよわが涙、と警官は言った』という小説が、なぜこれほど胸に迫る力をもっているかについての、ささやかな傍証にはなるかもしれない。

 引用ばかりで終わるのも気がひけるので、蛇足ながら、本書についてごく私的な感想を記しておきたい。
 本書はなによりも、涙を流すこと、泣くことについての物語である。最愛のものを失ったとき、人間であれば泣くことができる。
 水鏡子氏が「ディック断想」(SFマガジン八二年七月号、のちに加筆訂正されて『悪夢としてのP・K・ディック』に収録)の中で指摘しているとおり、本書に登場するスイックスの六は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』におけるネクサス・型の六に通じる。ジェイスン・タヴァナーは、遺伝子操作によって生み出された、(ディック的な意味での)アンドロイドなのだ。だからこそ、ジェイスンは涙を流すことができない。ルース・レイの語るウサギについてのエピソードの意味するものを理解することができない。しかし、人間であり、本書の真の主人公でもある警察本部長、フェリックス・バックマンは、妹の死に涙を流す。バックマンというキャラクターは、本来ならディックの敵であるはずの人物だ。「おれはけっしておまえに説明するわけにはいかない。ただこう言うだけだ。当局の目に触れるんじゃないぞ。おれたちに興味を抱かせるんじゃない。おまえのことをもっと知りたいなんて、おれたちに思わせるんじゃない」というバックマンの独白は、そのまま、カリフォルニア時代、たえず国家権力から監視といやがらせを受けつづけたディック自身に向けられたものだ。それでもなお、バックマンは涙を流すことができる。人間であるが故に。
 しかし、この小説の中で流される涙は、あきらめの涙ではない。たとえば、同じく人間の悲惨を描きながら、「そういうものだ」という言葉で切って捨てるヴォネガットの諦観は、ディックには存在しない。ディックにおける涙は、どうしようもない現実をどうにかしようとする強固な意志のあらわれにほかならない。ルース・レイはジェイスン・タヴァナーに向かっていう。「嘆くのは人間、子供、動物が感じることのできるもっとも強烈な感情なのよ。それはすばらしい感情だわ」「悲しみは自分自身を解き放つことができるの。自分の窮屈な皮膚の外に踏み出すのよ」
 だから、ディックはつねに涙を流しつづける。人間のために。そして、涙も乾かぬうちから、怒りをむきだしにして、この“現実”にくってかかる。死んでいった人々、血を流しつづける人々のために。

 最後にちょっとだけ、個人的な話を書くことをお許しいただきたい。ディックがこの世を去ってから、早いものでもう七年になる。
「フィリップ・K・ディック氏(米SF作家)二日、カリフォルニア州サンタアナの病院で卒中のため死去、五十三歳。一九二八年シカゴ生まれ。(ニューヨークAP)」
 ──一九八二年三月四日付の新聞の片隅にひっそりと載った、この短い死亡記事を見つけたとき、ぼくは涙を流しはしなかった。そのころ学生だったぼくは、春休みで実家に帰り、ファンジンを編集していた。何人かのディック・ファンの友人に電話をかけ、そのニュースを伝え、言葉少なにディックの思い出を語り合った。毛沢東が死んだ、とガールフレンドに電話をかけたときのディックとは違って、涙声ではなかった。その日の夜は、仲間のひとりが訳したディックの短篇集The Golden Man序文の原稿にもう一度目を通した(この序文は、のちに浅倉久志氏の翻訳で『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック・』に収められた)。その中で、ディックはこう書いている。

 いまわたしが怒り狂っているのは、いちばんの親友のドリスという二十四歳の女の子のことだ。彼女はガンに罹っている。わたしの恋している人間は、いつ死ぬかもしれないのだ。そこで、神とこの世界に対する激怒がわたしの体内を駆けめぐり、血圧が上がり、脈拍は速くなる。そこでわたしは書く。わたしの愛する人たちのことを書き、彼らを現実の世界ではなく、わたしの頭から紡ぎだされた架空の世界の中に住まわせようとする。現実の世界はわたしの基準に合わないからだ。わかってる、自分の基準を修正すべきなんだろうさ。わたしは足並みを乱している。わたしは現実と折れあうべきだ。だが、一度も折れあったことはない。SFとはそういうものなんだ。(浅倉久志訳)

 そのあとぼくは、ファンジンの資料にと、たまたま郷里まで持って帰っていたサンリオ文庫版の『流れよわが涙、と警官は言った』を読みはじめた。それがせめてもの追悼だと思った。そして、読み終わり、本を閉じたときも、涙を流してはいなかった。だがそれから、ジェイスン・タヴァナーの、フェリックス・バックマンの、アリス・バックマンの、キャシイ・ネルソンの、ルース・レイの、そしてフィル・ディックの生涯に、寝床の中で思いをはせたとき、ぼくの目はかすかに潤んでいたかもしれない。つまり、ぼくにとって、フィリップ・キンドレッド・ディックとはそういう作家だったのだ。
 あなたにとっても、この本が、とくべつな一冊となりますように。


いかがでしたか。この作品について、実は当ブログ内でこんな方も感想を書いてたりします。あわせてご覧ください!

2010年2月17日 (水)

解説のリストをアップしてしまう。(解説フェア)

えー、各所から要望もありましたので。
一応フェアの帯に記載はあったりするのですが、主要作品の解説者リストをアップしてみます。
是非店頭でもご覧になってみてくださいませ!(敬称略)

「ニューロマンサー」-山岸真
「流れよわが涙、と警官は言った」-大森望
「祈りの海」-瀬名秀明
「ディファレンス・エンジン」-伊藤計劃&円城塔・巽孝之
「天の光はすべて星」-中島かずき
「華氏451度」-佐野眞一
「タイタンの妖女」-爆笑問題・太田光
「犬は勘定に入れません」-岸本佐知子
「老ヴォールの惑星」-松浦晋也
「ミステリ・オペラ」-笠井潔
「小指の先の天使」-桜庭一樹
「兇天使」-大森望
「花模様が怖い」-池上冬樹
「緊急の場合は」-大沢在昌
「鷲は舞い降りた 完全版」-佐々木譲
「太陽の黄金の林檎」-中島梓
「Yの悲劇」-新保博久
「見えないグリーン」-鮎川哲也・法月綸太郎
「刑事の誇り」-都筑道夫
「スペシャリストの帽子」-柴田元幸
「こぐれのごはんジャーナル」-鶴田真由(女優)
「うたかたの日々」-小川洋子
「昨日」-川本三郎
「時計じかけのオレンジ 完全版」-柳下毅一郎
「一九八四年(新訳版)」-トマス・ピンチョン
「清水邦夫 1」-岩波剛・古川日出男
「あなたに不利な証拠として」-池上冬樹

こうしてみると錚々たる方々にいただいているわけです。
解説でフェアを組みたくなった理由もわかろうというものですよね、たぶん。
では。

2010年2月 8日 (月)

『あなたに不利な証拠として』の解説をUPしてしまう。(「解説」フェア)

さて、前回更新での予告どおり、「解説」で選ぼうフェア参加作品の中から、実際に掲載されている「解説」をご紹介いたします。

はじめの1冊は、ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』収録の池上冬樹さんによる解説。ハヤカワ・ポケット・ミステリ版刊行時に、同じく池上氏の手になる書評で大ブレイク、その年のミステリランキングを総ナメにした本書を、文庫化に際して再び紹介していただいた文章です!

 
 文芸評論家 池上冬樹

 この素晴らしい傑作を、ふたたび紹介できることを、僕はとてもうれしく思う。
 ハヤカワ・ミステリ(通称ポケミス)の一冊として上梓されたのが二〇〇六年の二月だから、まだ二年しかたっていないのだけれど、もう何度読み返しただろう。枚数が短いということもあるが、冒頭の「完全」や「告白」など、五回は読み返していると思う。
 そもそも本書を二年前に読んだとき、僕はすぐさま冒頭にもどって「完全」だけを読み返した。連作のつながりを確認したかったわけではない。そうではなくて、うちのめされて、もういちど凄さに触れたくて読み返した。心地よく温かなストーリーではない。むしろ絶望と不安と虚無と諦念と祈りの混在しているストーリーであり、しかもきわめてリアリスティックな話なのに、どうしようもなく惹きつけられ、ふたたび読まずにはいられなかった。主人公が味わった体験をもういちど感じたくてしかたがなかったのである。つまり、女性警官が一人の男を射殺せざるをえなかった話をだ。殺すことの恐怖と、殺したあとの茫然とした思いと、自分の行為に誤りはないという正当化と、それでもなぜそのような目にあわなくてはいけないのかという理不尽さと、なぜ苦しまなくてはいけないのかという戸惑いのなかでもがき苦しむ一人の警官の話をだ。
 そこには一般的なカタルシスはないかもしれない。生々しい葛藤があるだけだろう。にもかかわらず魅せられ、読みふけってしまうのは、心が震えるからである。昂奮ではない。感動とも異なる。何かもっと深い心の奥での衝撃である。かつて体験したことのないような心のざわめき、不安、驚きが渾然となり、それが僕の胸を揺さぶり続けるのである。自分の心の奥にこんなに無防備でやわらかな部分があったのかと思うほどに、ドラモンドの言葉であおられ、まさぐられ、戦かせられ、そして鎮められるのだ。
 その小説の凄さを、僕は二年前に、いちはやく新聞の書評欄でとりあげた。硬派な書籍が中心になりがちな朝日新聞の読書面において、ハヤカワ・ミステリというミステリファン以外にあまり知られていない(とはっきり書いてしまうが)叢書の新刊をトップで書評したのだ(二〇〇六年三月十二日付朝刊)。僕は昔から純文学もエンターテインメントもともに読んできたし、純文学というだけでつまらない小説が評価され、エンターテインメント(とりわけミステリ)ということだけで不当に低く評価されることに苛立ちを覚えていたので、このジャンルを超えて読む者を圧倒するミステリを何としてでも強力に推したかった。エンターテインメントのジャンルには、現代の純文学作家たちが書き得ないものをやすやすと書いてしまう作家がいることを、広く知らせたかった。
 書評が新聞に掲載されたとき、一部の人にほめすぎではないかといわれたけれど、僕にいわせるなら、まだまだほめるのが足りなかった。朝日新聞という媒体の力もあり、大きな反響をよび、すぐさま重版になり、帯には書評の一部が引用され、読者の関心をひくようになった。いま冒頭で、・ふたたび紹介できることを・といったのは、そういう事情である。
 その書評をいま紹介したいと思う。読書面トップの書評は四百字詰め原稿用紙三枚だったが(普通は二枚)、元々の原稿では六枚弱である。僕はいつも多めに書いて、それを指定の字数まで削りに削っていく方法をとる。ここでは元の原稿を紹介したいと思う。解説を依頼されて、全面的に新しい文章を書くつもりでいたけれど、そしていくつか書いたけれど、いくら書いても、どんなに書いても、やはり最初の原稿がもつ強さにはかなわない。
 では、どんな書評だったのか。具体的には、次のような書評である。
          *
 素晴らしい! 素晴らしい! もうこれほど素晴らしい小説を読んだのは、いつ以来だろう。僕は純文学もエンターテインメントもわけへだてなく読んでいるが、これほど心を震わせる深遠な小説は最近ない。きわめて珍しいのではないか。とにかく読みながら何度も心が震えた。いったい何故こんなに心が震えるのかと思った。いったい何故こんなに一行一行が心を突き刺すのかと。昂奮することはある。感動することもある。感涙に咽び、温かな余韻に浸ることもある。あるいは衝撃をうけ、思わず声をもらすこともある。しかし小説を読みながら、心が震えることは滅多にない。
 まず、冒頭にあるのは、「完全」という短篇だ。主人公はキャサリン、二十二歳。警官歴十五カ月で、職務執行中に強盗を撃ち殺した。物語では、キャサリンがどのように事件と関わり、どのように射殺したかを振り返る。それだけである。十八頁、およそ三十枚の短篇なのに、まるで長篇のように重く深い。徹底したリアリズムで、警察官の職務の一部始終を描き、事件現場へと読者を連れて行き、キャサリンが銃を撃たざるをえない情況をまざまざと味わわせる。そして殺すしかなかったこと、殺さなければ自分が死んでいたことを深く感得させるのである。
 そう、僕らはキャサリンになる。彼女が目にするもの、触れるもの、聞くものすべてが僕らの体験になる。彼女の懊悩が外界と感応し、いちだんと戦き、おそれ、うちひしがれていくのを感じ取るのである。読む者の心が震えるのは、主人公の恐れがそのまま熱を帯びて伝わってくるからだ。
 それはほかの短篇でも変わらない。キャサリンのほかに、交通事故で辞職せざるをえなかったリズ、家庭内虐待の犠牲者であるモナ、レイプの被害者に心をいためるキャシー、ある事情から職務放棄をするサラと、ここには五人の女性警官が登場し、それぞれ主役をつとめ、行きつ戻りつしてゆるやかに絡まりあいながら、エモーショナルな結末へと向かっていく。エピグラフに使われているオスカー・ワイルドの・真実・についての言葉をもじるなら、純粋であることはめったになく、単純であることは絶対にない真実を、みなそれぞれが、魂の暗闇で見いだすことになる。そのなかで印象的なのは、リズが“壊れた秘密の心”を思いやる「告白」、モナの崩壊した家族の肖像を二人称で物語る感動作「銃の掃除」、そしてサラが語り手をつとめる最後の一篇「わたしがいた場所」だろう。とくにサラを描く二篇は、まるで桐野夏生のように魂の彷徨を描ききっていて圧倒的である。
 本書は、女性警官たちの物語なので、一般的には警察小説のジャンルに入るだろう。実際、キャシーを主人公にした「傷痕」はアメリカ探偵作家クラブ賞の最優秀短篇賞を受賞している(作者は元警官なので、細部がきわめて具体的で峻烈であり、人間ドラマも鋭く痛切だ)。
 あるいは、唐突と思わないでほしいのだが、藤沢周平のハードボイルドの定義、すなわち“世界から詩を汲み上げる心情と深い人間洞察の眼、それと主人公のシニカルな心的構造が釣り合って一篇のハードボイルドが誕生する”(『小説の周辺』文春文庫所収「読書日記」より)を援用するなら、まさにハードボイルドといってもいいだろう(その意味で藤沢周平のファンも満足できるのではないか)。
 しかし、冒頭の「完全」、または死臭から子供時代を回想する「味、感触、視覚、音、匂い」が証明するように、細部の緻密な写実性、内部への沈潜の深さ、静謐で揺るぎない完璧な文体と、ほとんどテイストは純文学である。日本の純文学が失いつつある徹底したリアリズムの強さ、叙事が生み出す詩情の輝きをあらためて印象づけてくれる。
 本書は、女性作家の第一短篇集である。十篇の連作に、作者は十二年間かけたという。作品の出来と執筆時間が比例しないことはわかっている。時間をかけたからといって、必ずしもいい作品が生まれる保証はないし、むしろ期待を大きくしたぶん、作品に対する幻滅も大きくなる場合が多い。だから時間は関係ない。関係ないけれど、しかしこと処女作に関していうなら、時間は比例する場合が多い。本書など、作者の長年の警官としての体験が精神に刻み込まれ、そこから思索が広がり、生々しい言葉が獲得されている。まさに経験の蜜と文章の彫琢の深度がうかがえる傑作である。
 本書は、あらゆる小説好きを熱狂させずにはおかない本物の小説であり、作者ローリー・リン・ドラモンドは本物の小説家といっていい。海外・日本を含めて、ここ十年間にでてきた新人のベスト3に入るだろう。必読!
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 優れた書評はアジテーションであると思っているので、思い切り読者を煽動するような書き方になったが(しかし嘘も誇張もひとつもない!)、その煽動も売れ行きの理由のひとつにはなったのだろう、『あなたに不利な証拠として』は売れに売れた。評判が評判をよび、いちだんと売れ行きが加速し(ここ二十年間のポケミスでも際立った売れ行きを示したという)、カラフルな紙カヴァーがつくようにもなって、昔からのポケミスファンは驚いたものだ。
 そして二〇〇六年の年間回顧では、「週刊文春ミステリーベスト10」と「このミステリーがすごい!」の第一位に輝いた。ふたつのベストテンで第一位になったのは、過去二十年間ではウンベルト・エーコ『薔薇の名前』、ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』、ジョン・ダニング『死の蔵書』、サラ・ウォーターズの『半身』についで五冊目である(ちなみに昨年のジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメイカー』が六冊目になる)。

 これほどの作品がアメリカで評判をよばないわけはなく、カーカス・レヴュー、パブリッシャーズ・ウィークリー、ロサンジェルス・タイムズといった各紙誌で絶賛され、二〇〇五年のペン・ヘミングウェイ賞にノミネートされた。惜しくも賞は逃したものの、テキサス作家協会のヴァイオレット・クラウン賞とテキサス文芸協会のジェシー・ジョーンズ賞を受賞し、さらに前述したように短篇「傷痕」がアメリカ探偵作家クラブ賞の最優秀短篇賞に輝いた。きわめつけは、クライム・ノヴェルの巨匠のエルモア・レナードがドラモンドにほれ込み、「彼女が書くものはこれから全部読む」と宣言したことだろう。本書を読めば、その宣言もわかるだろう。僕もまた小説のみならずエッセイそのほか(それこそ断簡零墨)すべて読みたいと思う。それほど人を熱狂してやまない作家といえるだろう。

 なお、本書の原題は、いわゆる「ミランダ警告」からとられている。アメリカの警察官が犯人逮捕のときに告知を義務づけられているもので、「あなたには黙秘する権利がある(You have the right to remain silent.)。あなたの発言は法廷で不利な証拠として扱われる可能性がある(Anything you say can and will be used against you in a court of law.)」という警告である(映画やテレビでごらんになった人も多いだろう)。これをきちんと被疑者に告知しないと逮捕が無効になったり、裁判で無罪になったりする。いくら犯罪の証拠を押さえても、捜査の手順や手続きに誤りがあれば無罪になるのである。そういう行きすぎた(という言い方は語弊があるが)被疑者保護の法制度に疑問を覚えつつ、ときに空しさを覚えながら、罪と罰、正義の遂行に思いをはせながら、警察官たちが捜査活動に従事しているのである(それは本書を読めばわかるだろう)。

 ローリー・リン・ドラモンドは現在、長篇小説である第二作 The Hour of Two Lights と、回想記の Losing My Gunに取り組んでいる。前者は幼いときに母親を殺された少女が警察官になり、母親殺しを再捜査する内容で、アメリカで二〇〇八年の刊行が見込まれている。後者はタイトルにあるように警察官時代を回想するもののようで、『あなたに不利な証拠として』の実録版と見ていいのではないか。そうなると期待はいっそう高まる。早く読みたいものだ。

二〇〇八年二月

いかがでしょうか? 読みたくなった?
というような感じでこの後も少しだけ解説の世界をご紹介予定。
お楽しみに!

2010年1月29日 (金)

本を解説でえらぶという視点。

ひさしぶりの更新です。
多分。

さて、タイトルで何事かと思われた方も多いでしょうが、
これ、そろそろ書店店頭に並ぶであろう文庫フェアのコンセプトなのです。

Kaisetsu_obi

まず表紙OR帯、そしてカバー裏のあらすじ。気になったら本文を少々。
本を買うときの流れ(目的買いにあらず)ってみなさんこんな感じなのでは。
ご多分にもれず僕もそうなのですが、ここに新たな視点を加えてみたらどうだろう。
それが今回の「本は解説で選ぼう」フェアです。

個人的経験も込みで、名作の解説ってやっぱり名解説であることが多い気がします。
それは担当編集者が、この作品にはこの人!って感じで気合を入れて依頼をするから、
+
依頼された方もこんなに素晴らしい作品ならこうだ!って気合が入るから、
なのかなあと思っていて、それは多分そうだろうという気がします。

物語を読んでから読むのがまあ普通。
でもこの解説、実は本選びの指標になるんじゃないだろうか。
というところからフェア作りが始まっているのですね。
あとがき乃至は解説から先に読みます!みたいな人の話もちらほら聞きますし。
実際、解説は『いちばん近くにある書評』だったりするわけで、
その作品の面白さはもとより、こう読むのもアリだよ!ということを「解説」してくれるガイドの役割も果たしてくれるのです。
(多分)

翻訳ものってとっつきにくい!というアナタ。
実はガイドが巻末についていたのですよ!

というわけで、フェア開催期間中、こちらのブログでもそのガイドの一部をご紹介。
意外な方も解説を書いていたりするので、そのあたりもお楽しみに。

ああ、まともな更新だ。
合わせて早川書房Twitterもよろしくお願いします。
アカウントはこちら→http://twitter.com/Hayakawashobo

2010年1月11日 (月)

謹賀新年。

新年から10日もたってしまいましたが、今年も宜しくお願いいたします。ハヤカワ文庫はなんと文庫創刊40周年という記念すべき年を迎えるので、もろもろと仕込みに向けて、心も引き締まってきたようでありますよ。
(体も引き締まればいいのになあ。)
(ジェイソン・ステイサムはやりすぎだよなあ。)

と、どこぞのブログと似通ったようなことを書くのはやめておいて。

さて、昨年末に開始いたしました早川書房公式Twitterアカウントですが、お陰さまでフォロワー2200人を突破いたしました。(1月11日現在)
ありがたい事であります。
先人の歩んだ道筋は今でも愛されているのだなあと、歴史を深くは知らぬ、僕のような若輩者の心にも少々の感慨が起こりました。

まあそんなわけで、
さらに愛されるブランドとなるべく今年も精進していきます。
微力ながらこのブログもその一翼を担えれば。。。
ではご指導ご鞭撻のほど。

(僕は基本、短文向きだなあ。)

2009年12月22日 (火)

思い出したように。

ひっそりと更新してみます。

さすがにほとんど店頭では「ハヤカワ文庫の100冊」フェアを見かけなくなりました。
去年に引き続き、今年も好評をいただきましてありがとうございます。
読書メーターさんとのコラボなどの新しい試みもできて、中の人的にもある程度の手応えをつかむことができました。

来年の「100冊」に向けて精進します。

で、こころ残りだったのがこのブログ。
せっかく作った上に、有名作家さんに推薦文などをお寄せいただいているので、閉めるのもしのびない。
でも何を書くべきか、ということでズルズルと更新せずに参りましたが、
ここで用途決定。

その名も「ハヤカワ文庫のフェアブログ」
書店店頭を飾る文庫フェアの話題を中心に更新を続けていきたいと思います。

間を開けてしまいましたが、今後とも宜しくお願いいたします。

ちなみにTwitterもはじめてみました。
http://twitter.com/Hayakawashobo
こちらもよしなに。

2009年10月 9日 (金)

本格ミステリのおすすめは?

雨風吹きすさぶ中、こんにちは。このブログには書いてからアップするまで多少のタイムラグがあるので、この前置きが文字通り空気読めてない感じになる可能性もあるのですが…
本の大敵、それは水。バイト先の書店が雨漏りと激闘していたのを思い出します。一度大雨で床上浸水したときは文字通り修羅場だったと聞きました。そうでなくても台風なんかが近づくと、お客さんが減ってひまになったものでした。「明日買おう」「そのうち買おう」と思っていたら、明日台風が来て本屋さんに寄る気が失せてしまうかもしれません! あの本もこの本も、今日手に入れてしまうっていうのはどうでしょう。

本日は「本格ミステリ」ジャンルを担当したAさんとお話ししてきました。ミステリマガジン編集部に所属する彼女は「小冊子のために、本を読み返したりするのはどれもおもしろくてまったく苦ではなかったのですが……」やはり「時期が雑誌の進行と丸かぶりで、ちょっと冷えました」と半笑いで一言。そしてこのインタビューもまた、「ミステリが読みたい! 2010年版」の進行まっただ中で、文字通り「ゴールはどこにあるの?」状態がつづいているという彼女を無理やりつかまえて敢行しています。ごめんなさいAさん。そしてありがとう。「今年の「ミステリが読みたい!」は採点方法、発表形式などすべてを一新した全面リニューアルでお送りします! きっといい意味でびっくりしていただけると思うので、ぜひ買ってください!!」

文字通りの血の叫びを披露してくれたAさんの「本格ミステリ」ジャンルのおすすめはクレイグ・ライス「スイート・ホーム殺人事件[新訳版]」。

「隣家での殺人事件を解決して推理作家のお母さんの役に立とうと、3人の子どもたちが大活躍する1944年発表の名作の新訳版です」

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『スイート・ホーム殺人事件[新訳版]』

「おもしろさそのまま、ことばがより現代風で身近になった、羽田詩津子さんによる新訳がウリです。今もアメリカでこんなホームドラマが展開されていたら楽しいな、と思いながら読みました! たとえば末っ子の男の子が仲間を大人にけしかける場面など、ほほえましいのにかなりひどいこともしたりして、その子どもらしさに思わずニヤニヤ」

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「とくに、論理を用いてパズルを解くように物語が進む「本格ミステリ」が苦手、と思ってらっしゃるかたにおすすめしたいです。本格的な謎解きの楽しみをきっちりおさえながらも「子どもたちかわいい〜」と思っているうちにどんどん読める本書は「本格ミステリ」への最高の入口になると思います」
関係なくもないですが原題は HOME SWEET HOMICIDE 。原題もかわいいですね!

昨今のミステリ流行りはみなさまご承知のとおりです。ただ、このブームは日本作家にかなりの部分を支えられているようです。国産ミステリの隆盛はたいへんによろこばしいことですが……翻訳ミステリを刊行しつづけてきた早川書房としては、一緒に翻訳ものも読んで!それから新刊以外も買って!と申し上げたくてたまらなかったりします。今でこそ非常に幅広い内容を含むようになりましたが、かつてミステリは「推理小説」でした。「ハヤカワ文庫の100冊フェア」の「本格ミステリ」ラインナップは、文字通り作者との知恵比べを楽しむ「推理小説」の名作傑作を集め、その発展と拡大の歴史の一部を追体験するのに文字通り最適です(結局最後まで「文字通り」を使いこなせませんでした)。いろいろな国のいろいろな時代の著者からだまされる快感に、どうぞやみつきになってください!

(ヤチ)

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